2014年7月30日水曜日

平和の祈り

先日、ウクライナのドネツク上空でマレーシア航空機が撃墜されるというショッキングな事件がありました。また、同じようなタイミングで、イスラエル軍がパレスチナ自治区のガザに侵攻し、多くの市民が犠牲になっています。シリアやイラクでの内戦も続いています。

不穏さが増す一方の世界情勢の中、わが国においても集団的自衛権の行使が、憲法改正などの正式な手続きを踏むこともなしに閣議決定により容認されるという事態になりました。太平洋戦争後、平和憲法を頂くことにより70年に渡って他国の争いに巻き込まれることを回避し続けてきたわが国の基本スタンスを大きく変えてしまう一大事です。

ここのところ、非常に性急かつ強引に、日本版NSC、特定秘密保護法、防衛装備移転三原則、集団的自衛権の行使、集団安全保障など、国のあり方を根本から大きく変えてしまうような一連のルール変更が正式な手続きを踏むことなく、なし崩し的に進められていることには強い危機感を抱かざるを得ません。

外務省のホームページには、7月3日付で、以下のような説明が掲載されています。

「日本として、国際協調主義に基づく『積極的平和主義』の立場から,同盟国である米国を始めとする関係国と連携しながら,地域及び国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に寄与していかなければならない」

いわゆる、八百万の神の国である日本は、元来、多様性に対して懐が深いところがあると思います。それぞれの違いを尊重し、「世間さま」に遠慮したり配慮しながら「和をもって貴しとなす」や、「互譲互助」という精神を根底に持っており、「利己」は嫌われ「利他」が重んじられます。

上記の外務省の説明文は非常に耳触りも良くもっともらしい主張ですが、「積極的平和主義」というものの本来のあり方は、武力を肯定した「利己」の押し付けであってはならないと思います。日本が再び軍事大国としての道を歩みはじめ、それをもって「積極的平和主義」を唱えるのであれば大いに警戒しなければなりません。

キリスト教の出典ですが、ある方が、聖フランチェスコ・アッシジの平和の祈り、というものを教えてくださいました。

【平和の祈り】
「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに許しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。わたしたちは与えるから受け、許すから許され、自分を捨てて死に、永遠の命を頂くのですから。」

暴力や武力で押さえつけるやり方からは悲しみや憎しみの連鎖しか生まれないことを嫌というほど学んできたにも関わらず、それを繰り返す人類は本当に愚かで救いようがありません。紛争地域に一刻も早い平和が訪れることを心から祈ります。

3 件のコメント:

  1. 辻野さん、こんばんは。

    槍玉に上がっているイスラエルですが、私がイスラエル人ならこう答えます。

    「日本は他国だけで無く、自国の問題でも争いを回避している。北朝鮮は国家が拉致に関与したと認めているのに、どうして日本は何もしないのだ?イスラエルであれば、このような人権侵害は絶対に許さない。主権国家として、武力に訴えてでも自力で奪い返すだろう。日本人は、自国民が拉致されても争いを回避している状況を、是とするのか?」

    我ながら感情的な文だなぁ...とは思います。
    ですが、仮に私がこう問われれば、返す言葉が見つかりません。

    石原慎太郎さんは、尖閣問題に関して国会質疑で、「毅然とした態度とはパチン。寄らば切るぞと鯉口を切る。こういう態度の事をいう。抜くやつは馬鹿だ」と仰いました。
    一方、日本国憲法は、「鯉口を切る」どころか刀を持つ事すらを許していません。
    平和憲法、と仰いますが、この憲法は、本当に日本に平和をもたらしているのでしょうか。

    私は北朝鮮の日本人拉致を、日本は刀を抜いてでも解決すべき問題と思っています。
    刀を抜く事が出来ないのであれば金銭でも構いません。
    少なくとも、忘れてはならない話だと思います。

    以下、三島由紀夫のエッセイから抜粋です。

    「このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。(略)」

    特に、「無機的な~~」からの文章は、今の日本を言い当てているような気がしてなりません。

    返信削除
  2. 人の世に争い事が絶えない理由ってなんでしょうか。
    私なりに考えると、その理由は人間の使う言葉にあると思います。同じ言葉でも、その意味するところは立場によって様々が解釈が可能だし、話し方(抑揚)によっても全く違う意味に解釈されてしまう事があるからではないでしょうか。
    同様のことが「お金」や「技術」にも言えると思いますが、根本的には人間の思考方法に限界があるからではないでしょうか?事象を「点」として捉える思考方法ではその点が向かう方向は様々に解釈されてしまう。これに尽きると思います。
    事象を「点」ではなく方向性をもった「線や面」として捉え、それを伝える方法が確立しなければ人間は永遠に「誤解」というリスクからのがれられないでしょう。
    そして、この方法とは何か? そもそも事象を方向性をもった「線や面」として捉えることができるのか? とりあえずは結論がまとまりそうにないのでBGMは、「Cling Cling」by Perfumeってことで・・・ 。

    返信削除
  3. ご意見ありがとうございました。掲載が遅れてしまい失礼しました。

    返信削除