2011年11月9日水曜日

六本木ヒルズけやき坂通りのクリスマスイルミネーション

今年もイルミネーションの時期が来ましたね。年の瀬を感じます。大変な年でした。飾り付けはヒルズの方がミッドタウンより早いのですね。今年も後二ヶ月を切りました。

2011年11月7日月曜日

日本がガラパゴスに留まる歴史的背景

10月31日の投稿「日本再発見」の補足です。

先日、京都に出掛けた折に、清水三年坂美術館を拝観して来た。こちらは、村田製作所の創業家の村田理如(まさゆき)氏が10年ほど前に創設された美術館で、同氏が集めた幕末から明治初期にかけての日本の美術工芸品が展示してある。ホームページの記述には以下のように書いてある。


「集めるうちに気がついたことは、幕末・明治の美術品の名品はほとんどが海外に流出していて、日本国内には残っていないし、それらを本格的に展示している美術館も国内には存在していないということでした。特に金工(金属工芸)、七宝、印籠、根付等はひどい状態だということが分かってきました。これらの名品が、日本で市場に出れば、海外の業者の手に渡り、たちまち欧米に流出してしまいます。こういう事が、明治以降延々と続いてきた為に日本からほとんど姿を消して しまったのです。だから一般の人が明治の美術品の名品を見る機会はほとんどないといっていいかと思います。

明治以降、日本は急速に欧米の文化を取り入れ、生活スタイルも欧米化しました。学校教育も、美術や音楽は欧米のものが中心でした。日本人の美術に対する関心も、日本の伝統的なものより印象派の絵画や西洋骨董などに集まり、幕末・明治の美術品に関心を持つ人がほとんどいなくなってしまったのです。又、たとえ関心があっても欧米人ほど高く評価しない為、高額な名品は海外に流出していくのです。その結果、日本にはガラクタばかり残り、ますます明治の美術館に対する評価 も下がってしまったのです。

一方、海外で一番人気のある日本美術は何かというと、それは幕末・明治の美術品です。欧米の美術館でも日本美術といえば、幕末・明治の展示が大半ですし、ニューヨークやロンドンの日本美術のオークションでも陶磁器、浮世絵と明治美術が中心で、明治美術の人気が高いのは日本と対照的です。」(以上、同館ホームページからの引用)

この記述を読んで、同種の傾向は何も美術工芸品に留まらず、現代に至るまでさまざまな分野で継続しているのではないかと感じた。たとえば、コンテンツの分野でも、日本原作のホラー映画のリメイクがひと頃ハリウッドで流行っていたが、これなども原作が安値で取引されて、リメイク版が世界的にヒットしても版元には一銭も戻らないような形態の取引がなされていたように聞いている。すなわち、日本人は自分達が生み出したものの凄さを認識できないまま、おいしいところを海外勢に持っていかれてしまう、という傾向があるのではないかと感じる。これが、謙譲の美徳故なのか、お人好しで無欲のせいなのか、あるいは逆に手元の小金に目が眩むせいなのか、真の原因はよくわからないが、いずれにしろ、本来、グローバルにスケールさせて大きなビジネスに出来る素材をたくさん持ち合わせていながら、そのチャンスをみすみす逃してしまうようなことを歴史的に繰り返して来ている点が実際にあるように思う。

これからは、自分達が生み出したのものの価値をグローバルな視野できちんと認識する「目利き」と、それを他人の手ではなく、当人である自分達の手でグローバルマーケットに訴求して外貨を稼ぐ「商魂」が改めて求められているのは間違いない。

2011年11月2日水曜日

Tokyo Midtown Design Touch

弊社オフィスの目の前の東京ミッドタウンで、デザインイベント開催してます。人工の小川の中にアートが。。。

2011年10月31日月曜日

日本再発見

ソニー、グーグルと、ずっと日本の外に目が向いた人生を送って来ましたが、「Made in Japan、Made by Japaneseを世界へ」というコンセプトでALEXCIOUSというサイトを作ってから、日本全国を飛び回り、日々、あらためて自分の祖国日本を再発見するような毎日を送っています。

私の仮説は、

① 日本には世界に通用する優れた作り手は沢山いる(職人、匠、クリエイター、デザイナー、アニメーター、エンジニア、、、) ② しかし、一方で、グローバルにビジネスを演出できるプロデューサーが極端に少ない ③ 結果的に、①の優れたタレントや、アウトプットが、世界の人の目に触れることなく、国内のどこかで人知れず全国区にすらならずに埋もれている ④ したがって、ロングテールに埋もれている逸材(人、モノ、サービス、etc.)を掘り起こして、②の部分と組み合わせれば、昨日まで国内でローカルでニッチだったものが、いきなり世界デビュー、メジャーデビューを果たせるかもしれない、今は、そういうことがインターネットやクラウドの力をフル活用することによって可能

というもので、この仮説を証明して行く場としてALEXCIOUSを作りました。日本人は歴史的に自分達が生み出したものの価値を過小評価する傾向があり、逆に海外の人の方がその価値に先に気が付いて上手に事業化してしまったりします。

20世紀の経済モデルがさまざまな形で破綻し始めていますが、我々日本人が自らの手で、日本の優れた点を再認識して、クラウドなどの先端テクノロジーを使いながら21世紀の新しい経済モデルを生み出し、外貨を稼ぐ取り組みをやって行かねばならないと決意しています。

2011年10月11日火曜日

Goodbye, Steve Jobs

少しタイミングが遅くなったが、Steve Jobsへの追悼文です。

アップルを退任した時に、いよいよかな、と覚悟はあったが、やはりあっという間だった。大勢の人達が追悼のメッセージを発信しているけれども、私も小文を付け加えたい。

Steveとは、直接、間接にさまざまな接点があった。正確には覚えていないが、2003年か、2004年、まだソニーに居た頃に、彼の自宅を訪ねたこともある。直接対面したのは、結局その時が最後。豪邸が建ち並ぶPalo Altoの中では、特に豪勢でもないごくごく普通の家だった。奥さんや子供達に優しく接する彼の夫であり父親の面も垣間見た。

もともと、彼は盛田昭夫さんと仲がよく、また盛田さんのことを心の底から尊敬していた。アップルの目標はソニーだ、と公言していた時期もあった。iPodを作った時にソニーや盛田さんに敬意を表して、「21世紀のウォークマン」と表現したこともあった。

以下は彼が如何に盛田さんを慕ってたかということを物語るYouTubeで見つけたビデオ。冒頭の部分だ。会場で素人の方が撮っているものと思われるので映像や音は悪いが、盛田さんが亡くなった直後のアップルの新製品発表の会場の様子だ。


今やその彼もいなくなってしまった。

むかしソニーは「モルモット」と呼ばれていた。誰もやらないことにチャレンジし続けるスピリットを表現したものだ。まさに "stay hungry stay foolish"の精神。

天国で再会しているとすれば、二人は何を語り合っているのだろうか。。。

2011年9月19日月曜日

神子原村

過疎化が進み、65歳以上の高齢者が人口の50%以上を占め、そのまま放置しておくと消滅してしまう可能性の高い集落を限界集落という。2006年の国土交通省の調査によると、全国で限界集落は2643あり、1999年の調査と比べると284増加しているそうだ。

石川県羽咋市の神子原村(みこはらむら)もそんな限界集落の一つであった。 その集落の立て直しを年間予算わずか¥60万余りで託された高野さんという公務員の奮戦記をANAの機内ビデオで見た。フジテレビの報道2001の特集が元番組になっていたようだ。高野さんの奮戦記はあらゆるビジネスマンにとって大いに参考になるものだと感じたので、少し紹介しておく。

高野さんは、その仕事を受けるにあたって、一つだけ市長に条件を出した。一切の稟議を廃し、自分自身の決断で進めさせて欲しい、ということである。何事も稟議で決めるのが習わしの行政のしきたりを無視する非常識な要求だが、市長がその条件を受け入れることによって、高野さんの奮闘が始まることになる。

高野さんは、まず、村の若返りを図るために、村への移住者を募集した。空家になっている農家を移住希望者に安く貸し出すのだが、彼の戦略は、お願いして村に来てもらうのではなくて、非常に高飛車なスタイルを取ったそうだ。「来たければ、どうぞ、ただし、村民が面接試験を行うのでそれに合格した場合にのみ移住を受け入れる」、というプログラムを考案、実行した。結果的に応募者が殺到し、村民の厳しい面接をパスして移植した人達の定住率は100%となったそうだ。

次に、一世帯当たり年間¥80万そこそこの年収しかなくて経済的にやっていけない状態になっていたのを、地元米のブランディングによって復活させた。従来、この地では山からのきれいな水で高品質なコシヒカリを生産していたそうだが、生産したコメは総量をJAに買い取ってもらっていた。彼は、この地の米はもっとずっと価値があり高く売れるはずだと考えて、JAに納めることを止めて村民の手でブランディングし、直接売って行くことを提案した。しかしながら、村民からは猛反対にあい、そんなことが出来るものなら自分でやってみろ、と言われる。結果的に、彼は「神子原村」という地名にあやかり(the hilands where the son of God dwells)ローマ法王に直接「神子原米」を食べてみてもらえないか、と手紙を書く。無しのつぶてであきらめかけていた頃、突然バチカン大使館から電話があり、人口800のバチカン市と人口500の神子原村で親善の絆を結ぼう、ということで、神子原米をローマ法王に献上することなった。この話が大きく報道されて、「神子原米」はローマ法王に献上された米として一躍有名ブランドとなり高値であっという間に売り切れてしまう今では「幻の米」とも言われる銘柄になったという。

次に、高野さんはこの「神子原米」で日本酒を作り、やはり世界ブランドにすることを考えた。世界中で受け入れられる酒としてはやはりワインということで、ワイン酵母で日本酒を創る、という独創的なチャレンジを行い、これも見事に大ヒットして、「ワインのような日本酒」として今ではアラン・デュカスでも数量限定で供されるトップクラスの高級銘柄になったとか。

現在、これも高野さんの働き掛けで、村に株式会社を作り、上記ブランド米やブランド酒の販売を法人として手掛けるようになり、村は活気を取り戻して限界集落から見事に抜け出したそうだ。

高野さんの素晴らしいところは、①補助金やJA依存を断ち切って、村の自主再建を目指したこと、②最初からブランディングの着想がグローバルであること、そして、③私利私欲ではなくて、一公務員として、無心で村の再建に身を呈したこと(無功徳)、など、数限りないが、最後にはそんな高野さんの熱意が、村民の共感とやる気をはぐくみ、滅びゆく村を自ら救う奇跡を実現したのだ。

こういう話に触れると、不可能なんかない、何事も成せばなるものだ、ということを改めて感じ、非常に勇気づけられる。


2011年8月22日月曜日

母の命日

こちらの個人ブログの更新を長く怠ってしまいました。気楽な内容で短くてもいいから、もっとまめにメンテしなければならないな、とわかっていながら多忙にかまけてしまいました。。。
\(_ _)

今日は母の祥月命日なので、供養の為にも一言書いておきます。

母は、私が36歳の時に亡くなりましたので、もう17回忌も終わっていて、随分と長い時間が経ってしまいました。しかしながら、どんなに時間が経っても、亡くなった日の記憶は薄れることがなく、また、母親の愛情や教えというのは心や身体にずっと残っているもので、いまだにいろいろな場面での母の言葉や姿をありありと思い出します。

私は小さい頃から、正義感が強過ぎて、過激な発言や行動をすることがあり、母はそれをよく心配していました。 また、衝動的に行動することも多く、そのたびにたしなめられていました。

周囲の人への心配りが実に細やかな人で、その為に多くの人に慕われていましたが、自分自身のことはいつも後回しで、見えないところでは相当に疲れていたのではないかとも思います。「親孝行したい時には親はなし」 、と言いますが、結局、何の恩返しもできなかったように思えて後悔ばかりです。

母親が生きていたら、今の自分の生き方を見て、何というだろうか?たまにそんなことが気になります。きっと、まだまだ危なっかしくてハラハラしながら見ているのではないだろうか、、、そんな風にも思います。

早くあの世の母親を安心させらるような生き方をしたいものです。

合掌。